天地人
紫煙は死煙
笹
pp.1871
発行日 1984年10月10日
Published Date 1984/10/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402219272
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かつて作家の三島由紀夫はデビュー作「煙草』で,主人公が噎びながら口にする一本の紙巻煙草からの紫煙のたなびきにいみじくもなぞらえて,そのひ弱な少年が憧れる大人たちの背徳の世界に向かって揺れ動く不安と恍惚の心理を,見事に描いてみせてくれた.さて従来,煙草はその健康上の理由は一応さておくとしても,世間では尚どちらかと言うと悪徳不良の行為にはいるものと看做されてきた感がある.
この考えは,煙草が日本へ渡来した古の歴史を振返ることによって,又一層よく理解できよう.なぜなら,遠く元亀・天正から慶長の頃,東南アジアや南支那海よりの南蛮文化の最尖端に直接交渉のあった船乗りや,港町の女郎衆たちの間で先ず拡がったわが国の喫煙の風習は,その後,主としてそれが火事と喧嘩の源となる故からの度重なる江戸幕府の禁令布告にも拘らず,各地の遊野郎やカブキ者と称した不良無頼グループ,侠客連中を通じて急速に流行し始め,戦国風雲の記憶もしだいに薄らぎ豪華絢爛たる爛熟太平の世が訪れた元禄の頃には,取締りの緩みも手伝って,遂に上下貴賤の別なく日常の生活に深く浸淫するようになってしまったからである.今日,浮世絵などにみられる長い煙管を銜えた粋な伊達男や遊女の艶姿は,当時の喫煙風俗を如実に物語っているものと言える.
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