人と業績・19
相良知安—1836-1906
西川 滇八
pp.62-63
発行日 1982年1月15日
Published Date 1982/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401206464
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1870年(明治3年)2月に明治新政府はドイツ医学の採用を正式に決定した.この決定は相良知安らの意見が,「オランダ医書はドイツ医書の翻訳であり,ドイツの医書は英米のものよりすぐれ,ドイツ医学は世界一である」ということに拠るものであった1).これより先,1868年(慶応4年)の布告により,わが国の医学・医術には西洋医学を採用するとの基本方針が決定していたが,欧米のどこの国の医術を採用するのかは具体的に決まっていなかった.そこで明治2年に政府はわが国の医学教育の確立を建議した岩佐 純(越前藩)を徴士権判事に任命し,医道改正御用掛(医学取調御用掛)を命じた.この時に,「相良知安は才能共に備わりし人物なりしを以て,其際登用して大学経営の任に当たらせたしと申請して,共に医道改正御用掛を命ぜられ……」と岩佐がいうごとく,岩佐の推薦によって同時に任命されたということである2).そして岩佐と相良とは同年2月に京都から東京へと東下したのであった.当時は両者ともに新政府に認められるほどの地位も実力も備わっていた訳ではなかったが,ともに蘭医ボードインの教えを受けたことがあったのが機縁であるといわれている3).
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