資料
加藤勘十と労働衛生—労働衛生の夜明け
大森 暢久
1
Nobuhisa OHMORI
1
1(東京都)文京区医師会
pp.962-975
発行日 1981年12月15日
Published Date 1981/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401206447
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まえがき
加藤勘十といえば「溶鉱炉の火は消えたり」で有名な八幡製鉄の大争議を指導して以来の労働運動のパイオニアで,「火の玉勘十」とあだなされる鉄火の情熱と冷厳な知性の持ち主がすぐ頭に浮かぶことであろう.体験にもとづく『日本労働運動史』を書き上げることを念願として努力していたが,志半ばにして昭和53年9月27日にこの世を去ったのである.この加藤勘十と労働衛生がどこで結びつくのか.その残された未発表の『日本労働運動史』の中に,労働衛生の原点が書かれていたのである.
昭和53年9月上旬,義父,加藤勘十が病を得て私宅で療養中の時であった.保健会館の国井長次郎理事長が,私宅を訪れた,寄生虫学の権威,小宮義孝の追悼集1)をつくるための編集会議で,加藤勘十と小宮義孝が非常に親しかったことが話題になった.話題提供者は曽田長宗であるが,小宮との関係について聞きたいが面会してよろしいか,と見舞いの席で話された,義母,加藤シヅエが病室へ行き勘十に聞くと,よく知っているという.では,その話を聞きたいと,シヅエの仲介でそのつながりを国井長次郎3)が聞き始める.
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