連載 公衆衛生の道・10
後輩の教育
山下 章
1
1東京医科大学衛生学公衆衛生学教室
pp.65-69
発行日 1976年1月15日
Published Date 1976/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401205130
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保健所—大学
昭和49年11月30日,38年余り勤めあげた東京都を退職し,翌12月1日付で東京医大講師を命ぜられた.東京医科大学は私の母校である.昭和7年というと医専の頃だが,田舎の中学からナンバー校の理工をねらったがその道はせまかった.念のためもう1つということで受けたのが東京医専である.競争率はべらぼうに高いが,4年で医者になれる,といったような気持だけだった.この学校の衛生学公衆衛生学の教授として,公衆衛生院で指導を受けた赤塚先生が就任された.それから何年かあと,私が渋谷保健所にいる頃,伝染病予防や衛生行政の講義を手伝わないか,と言われたのがきっかけで,それから10数年,大体週1回兼任講師として大学にお邪魔するようになった.だから今回の転向も,ほんの隣の家へ移るような心境であった.だから定年まで3年残したことはちっとも気にならなかった.勤務の間隙をぬっての講義だから,満足なことはできない.学生にも迷惑をかけてきた.これからはじっくりと準備をしていい講義をしよう.役人をはなれてほっとした気持と同時に,そんな意欲が湧いてきた.それにしても,役所と大学とでは雰囲気が大変に違う.その頃の感情を公衆衛生情報5巻4号に次のように書いている.
「役人をやめて2〜3カ月の間は,いつもポケットの中にハンコが入っていた.そのハンコが月に1回給料をもらう時しか必要ない,という実感が出てきたのはつい最近である.
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