発言あり
「公衆衛生と私」に(本誌37巻8号)
A
,
K
,
T
,
Y
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M
pp.649-651
発行日 1973年10月15日
Published Date 1973/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204731
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抜け出した悲憤慷慨,絶叫型
人の歩む道とはさまざまではあるが,一生のうち何回か選択の岐路にたたされ,それがその後の生きかたを規定しがちなものである.苦難の森に迷いこみただ大木の周囲を歩いているにすぎなかったり,また広い大洋のなかにただ一人浮び何らなすことのできないはがゆさを感じさせ,あるいは立ちはだかる巨獣との格闘に疲れ果ててしまうこともある.公衆衛生と取り組む,あるいはそれにとりつかれてしまう契機となるものについてそれぞれ述べられはするが,実際には複数の要因が働いていてそのうちの1つ,2つが大きく抽出されはしても案外他の要因が決定的な役割をしていることもあって,そう単純ではないとは考えられるけれども,自分をみつめ,世の中をみつめての卓越した動機を聞くにつれ,慢然としてこの道を歩んできたわが身はただ恥じ入るばかりである.
医師についていえば,大部分が臨床医として巣立ってゆくことを考えると,公衆衛生領域に足を踏みいれた人は,いわばはぐれた少数といえなくもないが,それに関係あるかどうかは判らぬけれども,従来よくあった悲憤慷慨するという絶叫型が最近ないことは何となく心の安らぐおもいである.よく自分のおかれた状態を自分自身にいい聞かせて気をとりなおすかのように強調することがあるが,それが何となくうらさびしく感じられるからである.これがないのも公衆衛生の占める地歩が周囲に認識されてきたからではなかろうか.
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