時評
受胎調節閣議了解決定以前
pp.20
発行日 1952年3月15日
Published Date 1952/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401201006
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明治維新によつて,徳川時代迄續いた封建制度を,打開する第一歩が踏出されて以來,近代資本主義への一本道を歩んで來た日本の人口は,明治5年(約3500萬人)より,昭和10年(約7000萬人)迄に,2倍に達する著しい膨脹をとげた。この恐るべき人口増加に,綜合的な國力の發展が相應じられなかつたために,特に後半に於て日本は,その解決を求めて苦惱の道を進まざるを得なかつた。而も民族發展の一基盤として,人口の増加を求めながら,人口の増加による社會的,經濟的壓迫を,國内で處理し得ずして,又意識的に,國外に解決の糸口を求めようとして,昭和初頭以來の失敗の道を歩かせた。
封建時代の昔,食ぶちをへらすために,堕胎が民間に於て盛に行われ,明治,大正の時代となつても絶えなかつた。それは個人自身或は家族自體の社會的な,經濟的な問題を,解決するためとられた手段であつた。それが生活文化の向上に伴つて,漸次受胎調節の方向にむけられて來たのは當然の姿である。サンガー夫人の來朝と共に,この受胎調節が社會に大きく反響をよんだ。然し殘念ながら,まだ受胎調節を受入れるだけの,社會一般の準備が十分でなかつたために,普及が遲々として進まない内に,日本は滿洲事變より支那事變に突入するに至つて,むしろ生めよ殖やせよの一色で塗られてしまつた。それが終戰によつて,一大變換を來さざるを得なくなつたのである。
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