主張
醫療と迷信
笠松 章
1
1東大神經科
pp.242
発行日 1951年12月15日
Published Date 1951/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200965
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毎日通勤している東京大學病院の門前に,あやしげな藥草の露店商のでていることがある。病院通いに疲れた患者が,これをとりまいて熱心に效能の口上をきいているが,中には片肌をあらわにだして藥を塗布してもらつているものもある。おそらく,天下の大病院に通つても,はかばかしく治らないので,業をにやしてこんなものにでも救いを求める氣持になつたにちがいない。近代科學の粋をあつめたような大病院と,時代ばなれのした草根木皮の民間療法の對照がおもしろいので注意をひかれていたが,先日所要があつて慶應大學にゆくと,こゝの病院の前にも同じような露店商がでていた。醫學が進歩して,大病院でみられるように細く專門が分科し,診察技術が精密になつてもそれだけで患者の心が満されるとはかぎらない。醫學が發達すればするだけ,醫者は病氣をみて,病人をみないという弊が生れることも考えさせられる。
本號に叶澤氏も書いているように,迷信が醫療行爲と對立して適切なる醫學の普及を阻んでいることは,残念ながら事實である。しかし,その責任の一半が,醫者の側にあることも反省してみなくてはならない。醫者が患者に對して,絶對的な權威をもちえた時代(これもまた迷信の1つであるかもしれない)。はよかつたが,ラジオその他で通俗醫學が普及して(こゝにも問題が起るが)患者が醫學に對して一應の批判をもつようになると,單に患者のもつ病氣だけを抽出して,これを治療の對象とするだけではすまされない。
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