連載 水俣病から学ぶ・6
高度技術社会と専門家の役割―「2.5人称の視点」の確立を
柳田 邦男
pp.457-461
発行日 2003年6月1日
Published Date 2003/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401100890
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他者の悲惨を「わかる」とは
今年(2003年)の年明け早々に,名古屋市科学館で開かれていた水俣・名古屋展で,水俣病と闘いながら生き抜いてきた水俣市茂道在住の杉本栄子さんの講演を聞いた.杉本さんは1938年生まれだから,すでに60代半ばになっている.1959年に21歳で結婚した頃に発症して以来,40年以上も水俣病と闘ってきて,今でも時折ひどく体調が悪くなるときがある.それでもはるばる水俣から日帰りの日程で名古屋まで駆けつけてきたのだが,語る口調には,長年の闘病と訴訟の闘いなどで培われた,後に退かない意思と積極的に生きることへの確信に満ちた力強さがあった.しかも明るささえ漂わせている雰囲気に,私は深い感銘を受けた.
水俣病が原因不明の伝染病と言われた時期,すべての水俣病患者・家族がそうだったように,杉本さんとその一家も,苛酷な症状に苦しめられただけでなく,周囲の人々から残酷なまでの迫害を受け,それが病気以上に辛いことだったと言う.その状況について,杉本さんは栗原彬(編)『証言水俣病』のなかで詳しく証言している1).私は杉本さんのその証言を何度も読んで,水俣病の患者・家族が経験した拷問と言うべき仕打ちの日々について,理解できた気持ちになっていた.
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