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I 「暴力」がないのに苦しくなるのはなぜ?
「夫といると息苦しいのですが,決して怒鳴るようなことはないし,家族に無関心なわけでもありません。わたしがおかしいのでしょうか?」
夫婦間の暴力について,ドメスティックバイオレンス(DV)の概念が広く知られてから,とくに女性たちの「よくある経験」が「被害」と認識されるようになった。夫婦であっても手をあげること,暴言を吐くこと,性行為を強要することはおかしいと感じる経験が社会で共有されつつある。これらの行為は,被害者の経験と社会の認識が一致して,初めて暴力とみなされる。DV概念がなかった頃,被害者の経験は「結婚生活への辛抱が足りない」「不平不満が多い妻」と捉えられていた。こうした認識は,被害者の経験を無視(ネグレクト)するもので,社会的虐待であったといえる。
しかしながら,被害者が自分の経験を被害と認識しにくい家庭内暴力もある。冒頭の女性は,夫との関係に違和感を覚えている。しかし,夫の言動にはあからさまな暴力や暴言は含まれていない。むしろ,家族志向で,妻への気遣いも欠かさない。ただ,妻が家計のことで夫に相談したとき,「どうしてそんなことになっているの?」と妻の金銭管理能力が問われ,「お金の管理が苦手だよね」と苦笑されたという。挙句,義父母の前で「家の財布を任せられない」と話のネタにされ,「そういうところがあってもいいじゃないか」と義父にフォローされるに至っては,恥ずかしいやらみじめやらで混乱してしまった。帰宅してから夫に「ああいうことを言わないでほしい」と不満を伝えたが,「本当のことじゃないか」と取り合ってくれない。
たしかに自分も完璧ではない,と妻は思っている。だからこそ夫に相談しているのに「また?」「どうしてだろうね?」「本当に君は……」と言われるうち,自分がおかしいのではないかと思うようになってきた。
「自分がおかしいのではないか」――こう思わされて,自分自身の能力や感覚を疑いはじめるように仕向け,巧みな言葉かけと周囲を巻き込む操作によって,被害者のアイデンティティを揺るがす行為は,「ガスライティング」と呼ばれる心理的虐待である。

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