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編集後記
渡邊 昌彦
pp.154
発行日 2020年3月15日
Published Date 2020/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.4426200792
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1983年当時30歳の私は,国立がんセンター病理部で,後に総長まで上り詰めた故廣橋説雄先生に師事した.実験に明け暮れ,廣橋先生とは毎晩夕食をともにし,終電で銀座のお姉さまたちの甘い香りに噎せ返りながら家路についた.その甲斐あって辿り着いた初の英語論文が,学位論文となった.先生からは論文の構成にはじまって,定型文,図表の書き方,索引の選び方まで叩き込まれた.論文とは「目的」を明示し,それに対する「結果」を記すに尽きることを知った.その後,和文論文の経験がないど素人の私に,総説依頼が舞い込んだ.見様見真似で書き上げた総説を,こともあろうに病理部長の下里幸雄先生に読まれてしまった.当時の下里先生はがんセンターの「憲兵」と恐れられていた厳しいお方.目を通すなり,第一声が「文語体で書けば格調が上がると思ったら大間違い!」「…にて,だの,…おいて,だの使うんじゃない!」であった.以来,私はなるべく平易な文章を心がけている.
その後,母校の外科学教室に帰室し,ある光景を目にした.忙しい土曜の午後,データを手にした部下の傍らで,ご自身がコンピューター(当初はタイプライター)に向かう恩師故久保田哲朗先生の姿である.部下とディスカッションしながら,その場で久保田先生はスラスラと論文を書き上げていった.まさに神業.レジデントの中には自分の英語論文を訳せないご仁もいたという過保護ぶりで,先生は100篇を超える学位論文を指導した.私は残念ながら指導者として,どの師匠にも追いつくことができなかった.ただ,編集委員歴こそ長いので,偉そうに御託を並べることには長けているかもしれない.
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