研究室から
東京女子医科大学藥理学教室
小山
pp.106-107
発行日 1955年10月15日
Published Date 1955/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.2425905857
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この学校は創立以来50余年の歴史をもつているが,藥理学教室がひとり立ちになつてから,やつと10年である。それまでの長い間,西田敬先生(現・慶応の藥理学教授)が講師として講義と実習をされていた。それから私(小山良修)が1945年4月から專任教授として赴任したのであつた。当時の校長吉岡彌生先生が自慢していた基礎教室の一隅の藥理教授室なるものに入り椅子にどつかとこしかけて,さてこれからどんな風にして,この藥理学教室を発展させて行こうかと考えたり夢みたり,若いような血をわかしたものであつた。ところがそれから僅か3日あとに空襲で教室は完全にあとかたもなく焼けてしまつた(とつさに明智光秀の事を連想したのは正直な告白である)。それから焼け残りの離れの細菌学教室の小室を貸りて独り机に向う,まず補助員が1人出来る,助手代りの学生が手伝つてくれる,なんにもないから,ゾーリ虫を貸りた顕微鏡でのぞいたり,ミジンコの心臓をみて搏動数を200以上あると数えてみたり,クラミドモナスの生殖をみようと試みて,歴史は夜造られるなどと感心したり,オタマジヤクシを集めてメチレンブラウで染めて游がせたり,ヒドラ(腔腸動物)を飼つて眺めたり,絹糸草をはやして,女性ホルモンをやつてみたり,たゞもう小人閑居して不(完)全をやつて時間をつぶしていた。実習でも,蛙の眼玉は学生各自のおべん当箱の中でのぞくと言つたような有様であつた。
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