連載 プラトンからはじめる教育学入門・3
私たちは何を教えるのか?「徳」は魂のはたらきである
山口 栄一
1
1玉川大学教育学部
pp.846-849
発行日 2007年9月25日
Published Date 2007/9/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663100775
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学びは無自覚だが,確かなもの
私たちは,しばしば「なんのために教えるのか」ということを論じます。それは何かを学んでほしいからです。そして,その結果,彼らが社会のなかで「よく生きてほしい」からです。ただ生きるだけでなく,よく生きてほしいのです。「よい」の反対は「わるい」です。だから,学びにも,よい学びと,わるい学びがあることは想像に難くありません。したがって,私たちが意図的に教えるときには,よい学びに目を向け,望ましくないものは学ばせないようにするわけです。
しかし,子どもたちは,白紙ではありません。教えられる前に,多くのことを学んでいます。その典型は母国語の学習です。母国語の獲得をふり返ってみると,その学びの特異さがよくわかります。子どもたちはまわりの人々との関わりを通して,ことばを身につけていきます。ことばを身につけることに関して失敗することはなく,知的に遅れた子どもであれ,対人認知に困難をもつ広汎性発達障害の子どもであれ同じです。多少の遅れはあっても,それなりのコミュニケーション能力を身につけます。しかも,親が賢くあれ,モンスターであれ,ヤンキーであれ,日本語を話せれば親がどのような親であっても然りです。まさに,ことばを獲得するというのは,私たちの生得的に組み込まれた学びの本能であることがわかります。
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