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働く日記帳から
島村 喜久治
pp.13
発行日 1951年11月10日
Published Date 1951/11/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662200171
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耳をすますと,もう蛙の鳴き聲が遠くできこえる。靜かな晩で,妙に田舎の家をおもい出す。しかし考えてみれば,あきてはならぬ生き方をしているのは父母でもあつた。農民が百姓仕事にあきることが許されるだろうか。生涯の仕事をもつた人間が,その仕事にあきたら,どうなるか。私があきるのは,私の仕事を一時的なものだと思いこんでいるところに始まつているのである。一生をその中で生きねばならぬ時,あきたなどとは死んでも云えない言葉である。患者も,農民も,醫者も,みんなそうなのであつた。結婚までのあるいはただ生活の方便のための仕事だと思うからこそあきるのであつた。
働くことが即ち生きているあり方だ,というような生活,職業への自覺によつてつらぬかれた生活,そんな張りつめた生活を,私はあこがれる。そこではつかれることはたのしみでさえあるだろう。たとえば,ハイキングではつかれることはたのしいことだ。まして自分を打ちこんだ仕事なら,疲れて歸つてなぜたのしくないのであろうか。そこでは,苦しむことは喜びである。仕事の上で苦しみ,骨を折ることこそ働く喜びでなくて何であろう。またそこではなれることはあくまで仕事になれることであつて,日々の新しい喜びに馴れつこになることではない。最後にそこではあきることは一切のおしまいである。生きることにあきたものは自殺する他に途はない。
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