特集 患者‘理解’とは—日々のかかわりのなかで
‘でも……’の理解をめぐって
見藤 隆子
1
1東京女子大学短期大学部
pp.560-563
発行日 1976年6月1日
Published Date 1976/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661917890
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
はじめに
看護を考えるとき,患者を理解して,それからどんな看護をするかを考える,というプロセスが一般的には考えられているように思う.しかし厳密に考えれば,人間は人間を理解したかどうかをはかる物差しや根拠となるものを持ち合わせていないのであるから,人間が人間を理解したと常に断定することができないということに気付く.従って人を理解するというとき,人間に可能なのは,理解しようと努力する心の姿勢だけである.しかし日常的には,理解しようとするのではなく,簡単に分かった気になってしまう姿のほうが多いように思う.
人が人を理解することが困難であるからこそ,理解しようとする姿勢は無限に続き,終わりがない.そう考えると看護は,一応目下こう患者を理解した,という仮定のもとに行われる行為となり,この仮定は断定に至らない仮定であるからこそ,次々と修正されていかねばならぬ性質を持っている,ということになる.このようなプロセスの中に看護はある,と筆者は考えている.
Copyright © 1976, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.