母もわたしも助産婦さん
夢のような助産院づくり
三好 玲子
pp.24-25
発行日 1966年11月1日
Published Date 1966/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203289
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私が現在,助産婦としてたいていの分娩を扱えるという自信を抱けることは,やはり母という生まれながらの家庭教師をかかえた恵まれた環境のためだと感じています.再教育のための講習に限らず,機関雑誌,体験,あらゆる知識を母は歯でかみくだき私を育てあげてくれました.現在のように入院分娩の時代とは反対に,ほとんどが自宅分娩であった頃は,沐浴に回るのが日課で,母と交替で一日に4〜5軒は欠かさずあったように思います.今などは,時に自宅へ沐浴を頼まれると一軒でも,なんだかとてもおっくうで,昔の元気のよかったことが懐しく思われます.お七夜には,必ず赤ちゃんの額に口紅で赤く星を二つつけ,ほんのりと薄化粧をしたものです.いつの間にかそんな風習も立ち消え,あきるほどいただいたお赤飯でさえ,この頃は珍しくおいしくいただいてしまうほど時代が変わったのに,先日の新聞では,ひのえうまの影響が思いのほか大きかったということはやはり,どこかが少々狂っているのかしら.
母のもっていた夢のいくつかの一つに,入院分娩者に対する設備の充実があります.なにしろお嫁さんをいただく時の相言葉ではないが「お体だけいらしてくだされば結構です」といえるようにしたい.そして,それよりもましてお産は病気ではないということ,楽しみながら女の役目を果してゆけるような助産院にしたい,そんな気持から母と私は夢のような助産院を頭の中に描きました.
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