味わいエッセー 出会い
放庵
一柳 邦男
1
Kunio ICHIYANAGI
1
1山形大学麻酔学
pp.52
発行日 1990年1月1日
Published Date 1990/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541900548
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35年前アメリカへ渡った.インターンをするためである.24歳であった.アメリカ人の先生によれば,私の英語は立派に通じるはずであったが,事実はもどかしくも通じなかった.独りになってくやし涙をこぶしで拭った夜も幾晩かはあった.忽忙の一年が過ぎて少しは余裕ができたころ,私は故国に残してきたものの香りが懐かしくなった.母に手紙を書くと,早速レコードを一枚と,父の蔵書から抜いたらしい本を数冊送ってきてくれた.レコードは四代吉住小三郎の長唄の勧進帳である.このレコードは擦れて擦れて雨が降るまで聴いた.今でも持っている.勧進帳はその後舞台やテレビでどれほど観たことか.弁慶が富樫に向かって遙かに頭を下げるフィナーレにくると毎度こらえられずに流れる涙は,若いころアメリカで流した涙とどうやら同じ組成であるらしい.これも私にとって一つの出会いではある.
本の中に,角川文庫の小杉放庵『唐詩選私註』があったのが,私にとってもっと大きい出会いであった.この小冊は,旧制の中学高校生程度の初学者を対象に書かれたもののようであったが,私にとってはとにかく面白かった.
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