随想=私の出会った患者
忘れ難いキスの体験
馬場 省二
1
1国立療養所宮古南静園
pp.246
発行日 1982年3月1日
Published Date 1982/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541207701
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大学3,4年生の長い夏休みのいずれをも草津のライ園での研修で過ごした私は卒業を前にして,瀬戸の小島の長島愛生園長光田健輔先生に手紙を書いて就職をお願いした.折り返し"スグコラレタシ"の電文をいただいて昭和13年4月に長島に渡った.当時後年洛陽の紙価を高めた『小島の春』の著者小川正子先生は胸を病み,官舎で療養されておられたが,小川先生担当の病棟を受け継ぐように命ぜられ,その機縁で姉御肌の先生から教えを受けるために,1週間に1回くらい恐る恐る官舎に伺候した.あるとき私は他人には寸分の弱気も見せない先生が自分の体温表に今日は泣いたと書いてあるのを見つけて,孤島に独り病む先生の心情を察して暗澹たる思いに沈んだのであった.
さて着任してから幾何も経っていないある日,医局から治療棟に下りて行く長い渡り廊下の途中ですれ違った患者の一人が,突然に私に抱きつきその歪んだ唇を私の唇に押し当てた.周りの二,三の患者はそれを見てもただゲラゲラ笑っているだけ.すっかり肝をつぶし慌てて医局に引き返す私の背に,その患者は大声で"バカヤロウ"とどなった.赴任後間もない私の気負っていた心は,ここに早くも無惨に打ち砕かれてしまったのである.裏切られた思いと口惜しさに涙がとめどもなく流れ落ち,その日はそれからどうしたのか全く記憶にない.眠れない日が続いた.
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