鏡下耳語
「些」
石井 康之
pp.510-511
発行日 1973年7月20日
Published Date 1973/7/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1492207940
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講談社「大字典」によれば「シヤ」「サ」「スコシ」「スクナシ」些はもと呰の字の呰を誤つて些とし,さらに少の義に仮借して些少,些細等少き義となす……とある。
30数年前,小学校の卒業式のとき私は,この「些」という字に始めて対面した。底冷えのする講堂に直立したまま卒業生達は,来賓,名士のいずれも変わりばえのしない祝辞にあきあきし,動揺し始めていた。そのとき,指名されて羽織・袴に威儀を正して登壇したゴマシオ頭のオジさんがいきなり,演壇の前にこの「些」という字を大きく書いた紙を広げた。その突飛な行動と見たこともない難しそうな字に卒業生達は,興味をそそられて注目したのは当然である。いま,そのオジさんが学校とどのような関わりを持つていた人かあまりにも古い話なので思い出すことはできない。しかし,非常にユーモアのセンスにあふれ,話術が巧みであつたことをはつきりと記憶している。そして,おもむろに「些」の字を指さし,字源からの解説を始めた。これまでに数名の来賓から皆さんは非常に有益なお話を聞いたと思うが,しかし,ここに私が持参した「些」という言葉を忘れないように,また,些細なことにも常に注意するということを身につけることが大切で,大望を抱いてもほんの些細なことから一挙にその希望を失つてしまつた例などをあげて,面白おかしく話をされた。私達は軽妙な話し方に爆笑につぐ爆笑,固苦しい卒業式の雰囲気は一転して大変楽しいものになつた。その後,数10年の間この日の出来事は私の脳裏からまつたく姿を消し,忘れられていたのである。
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