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「正蔵の高座 むかしの春の宵」先日久し振りに正蔵の「お紺ごろし」を聴いて,忘れていた二十年も昔の甘酸つぱいにおいを思い起こして,なつかしさの余りお便りを致します。貴兄とはこのところ掛違つてお目にかかれないでいますが,毎年いただく年賀状の中の「酔余の戯作」を拝見しては,まるで一緒に杯を傾けているような気になつていましたが,先ごろのお作は特に嬉しく読ませて頂きました。「その昔(かみ)は容(いるる),しん生,梅橋らと運座をくみぬ 花色木綿」とありましたように,貴兄はあの頃もう正岡容に入り浸つていましたつけが,私は学生服で仲間と新潟のスキー宿の炬燵に足を突込んでいたものでした。
前途を嘱望されながら若くして逝つた私達の級友,鶯春亭梅橋も,もちろん当時はまだいが栗あたまで,ゲートルを巻いて一緒に雪山を登つたものでしたが,おかしなことに彼は,まつたくスキーのスの字も知らずに私達について来たんです。そうして昼間は私達の下手なスキーを遠くから寒そうに眺めていて,さて晩めしが済むと俄然ハリキッて炬燵を一坪の高座に見立てて,その上にちょこんと正座して,「エー相変らずばかばかしいお笑いを申しやげてお暇を頂戴いたしますが,なに商売,これと云つてやさしいものはございませんが,取り分けてこの芸人,中でもたいこもち程むつかしい商売はございませんようで……」とやおら宿屋のはんてんを脱いで,これからお馴染の「つるつる」を一席伺つたりしたものでした。こんな三つ子の魂が戦争ぐらいで消えるわけもなく,戦後どうにか一人前の耳鼻科の医者になつても,やれ人形町だ,上野だと,うろうろしていた様なそんな或る日,あれは確か神田の立花だつたと思いますが,正蔵師の「戸田の河原」いわゆる「お紺ごろし」を聴いて,この人に惚れ直したことがありました。正蔵は前名の蝶花楼馬楽の頃から「首提灯」などで私の好きな噺家でしたが,人情噺でも,円生よりもこの人の方が,私の肌に合つてたようでした。
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