思い出の写真
白木哲学—医学と社会経済
木下 二亮
1,2,3
1日本産婦人科学会
2日本母性保護医協会
3全日本病院協会
pp.480-481
発行日 1987年7月10日
Published Date 1987/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409207623
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昭和14年東大産婦人科新入局者
昭和14年4月九州帝大を卒業した私は東大産科婦人科学教室に入局した。入局最初の日,後述の白木教授の訓辞のあと同時入局の東大卒の6名の方と共に東大構内の三四郎池のほとりで記念撮影をしたものが右頁の上の写真である。向って左から立っているのが鈴村正勝(日本医大名誉教授),小生,本間正晴(戦時中病歿),坐っている左から勝野六郎(元都立駒込病院院長),下村忠四郎(内科開業),三角謙男(内科開業),堀口文雄(戦死)の諸君である。既に大東亜戦争直前であったので希望にもえて共に学ぼうとしていた7人が一諸におれたのは5月までで私と本間,勝野の3人以外はそれぞれ陸海の短期現役として去ってゆき,勝野君も2年後には出征してゆき,皆戦争終了まで帰ってこなかった。本間君も敗戦直前の昭和19年に病歿したので終戦までとにかく元気で教室で勉強できたのは小生1人(戦時研究員の末席をけがしたおかげで召集免除)であった。この日の白木正博教授の訓辞が私の人生をきめ,私の今日はその結果であるのでその要点を述べると,
(1)君等は産婦科の専門医になるために入局したのではない。専門医の指導者にならねばならない。
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