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私は1955年(昭和30年)アレキサンダー・フォン・フンボルト財団給費生として渡独し,チュービンゲン大学,エルンスト・クレッチマー教授の教室に留学中であった。翌1956年は,奇しくも精神医学界の二巨人エミール・クレペリン(1856〜1926),ジグムント・フロイト(1856〜1939)ともにその生誕百年にあたっていた。ヨーロッパでは各種の集会,記念論文の刊行などが行われた。1956年2月22日,23日の両日,ミュンヘン大学精神医学教室(主任,クルト・コレ教授)の臨床講堂でクレペリン生誕百年祭が開催された。クレッチマーが“まさにその頃,私にとって明るい光明が多くの人々の集うミュンヘン祭からさし込んで来たのである”と語っているように,クレッチマーとルードウィッヒ・ビンスワンガーに,マックス・プランク研究所のショルツ教授から,国際委員会の票決によるクレペリンの金メタルが手渡された。ドイツ語圏はもとより十数カ国の大学から知名の学者が集まった。内村教授が「アイヌのイムについて」講演された。多くの学者のなかに,マンフレッド・ブロイラー教授の姿を見たのはこの時である。その年の3月,私は当時クレッチマー教授の教室にあった畏友故相場 均君(早稲田大学心理学教授)とともに,チューリッヒ,ブルクヘルツリの教室にM. ブロイラー教授を訪問したのであった。
帰国後,私は『オイゲン・プロイラー:精神医学教科書』の翻訳を志し,M. ブロイラー教授の御許しを得たのであったが,訳書刊行の機会を得ず,私の志は中断した。当時私はすでに『エルンスト・クレッチマー:敏感関係妄想』の翻訳を手掛けており,クレッチマーの多次元診断と治療の思想を紹介中であった。E. ブロイラー(精神分裂病)およびクレッチマー(混合精神病)はともにクレペリン精神医学の良き継承者であった。また,ブロイラーとクレッチマーともにフロイトの良き理解者であった。“ジグムント・フロイトの精神分析理論の発展をオイゲン・ブロイラーは最大の興味をもって追求した”,“フロイトの学説の一つ一つを彼は自分の教科書に持ち込もうとした”と,M. ブロイラー教授が述べているように,E. ブロイラーはフロイトの学説が発展するように尽した当時の唯一の精神科正教授であったのである。私が『オイゲン・ブロイラー:精神医学教科書』の翻訳を志したのは,E. プロイラーのクレペリン(記述精神医学)とフロイト(力動精神医学)に対する精神医学的立場を知るためであった。30年後,私は,中央医書出版,吉田和弘氏の御すすめによって私の志を復活することができ,さらに再び私はチューリッヒ,ツオリコンのM. ブロイラー教授の御許しを得て,ブロイラー教授の教科書の訳業を続けている現在である。
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