- 有料閲覧
- 文献概要
昭和48年4月,私どもの教室で刑事告発をうけたことがあった。精神薄弱児施設収容中の13歳男子で,施設内で連日のように他児に殴打や切創を加え,飼育している動物を残酷に殺すなどの粗暴な行為が続き,気に入らぬことがあるとすぐガンゼルのもうろう状態に陥るなどと施設での取扱いがはなはだ困難となり,一時的にも私どもの精神科病棟に入院することになった。病棟内ではまわりとの緊張がほぐれ,また投与した向精神薬剤が奏効したためか,平静状態を呈していたが,入院20日目には流感に罹患,一週後下熱した頃より再び易刺激的,興奮気味となる。入院30日目の朝,よろめき歩行に気付かれたが午後突然の呼吸停止によって死亡した。家族からの告発により他大学による法医解剖に付せられたところ,大脳に巨大血腫が認められ特発性脳出血との死因鑑定がなされた。流感に続発する若年者脳出血についてもすでにわが国でも報告例があり,私どもにかかる業務上過失致死の責任は免れたが,平素私が嘱託の精神科医としてこの子の施設内での問題行動への取組み方について助言を行なっていたものの,いざそのすべてを医療の場にゆだねられた結果はこの子の死であったことで私どもはもちろんのこと,精神科治療に期待をかけていた関係者に与えた衝撃はまことに大きかった。そのことはたとえ不可抗力によるものだったとしても,生来性の出血性脆弱性の存在とか一部に想像されているように向精神薬剤による重篤な合併症としての悪性症候群syndrome malinが脳障害者に襲い易いこと,その他障害児独特の未知の要因の関連が考えられ,この不幸な結末が一精神薄弱児の医療管理中に発生した偶発事としてすまされない深刻さを見せつけられた思いがした。現今,心身障害者対策基本法にもとついて福祉行政の重要な柱の一つに障害児の医療面での充実があげられ,全国的にも専門の医療機関も設けられている。精神科においても心身障害児の診断や情動面で,あるいは合併症の治療や処遇に関して果たしている役割は決して少なくなく,そして現在,各種の児童福祉施設や自閉症児施設などに勤務している児童精神科医の数は必ずしも多くはないが,関係職員と協力して独自の計画による実践を地道に続け,精神薄弱児の不適応行動の改善にあるいは自閉症児との疎通をさぐっての実際的効果をあげている。しかしながら一方では,予算や人員の不足などの行政面の厚い壁に慷慨し,自らの方針を見出せないでマンネリ化するかもしくは無力感を抱いてその場を去って行くものもあると聞く。まして精神科といっても全面的ないしは部分的にも責任を担わざるを得ない身体的側面での治療や管理ともなると,さまざまな合併症をもつ重症心身障害児ではもとより私どもの苦い体験からも懸念されるように障害児なるが故に不測の事態が生じる虞れもあり,精神簿弱児をはじめとする精神的障害児の精神科医療のどの面をとっても生やさしいものはないはずである。しかるに最近では精神的障害児の問題は児童精神医学を志向する医師だけのものとは限らず,一般精神科医にとってもかなり身近かなものとなりつつある。というのも近年養護学級をもつ小・中学校がふえ,さらには昭和54年度よりの養護学校の義務化に向かっての文部行政に伴って,全国の市町村で設置を急がれている心身障害児就学指導委員会などへの参加や直接学校医として精神科医の協力が求められるようになったからである。ところで精神科医の立場から判別と就学指導に介入すべき障害児とは,文部省特殊教育課編「特殊教育執務ハンドブック」にあげられているように,かつては教育より保護や医療が先決するとされた白痴ないし重症痴愚,また重症のてんかん,児童精神分裂病,自閉症および接枝性精神病または極度の凶暴性をもっている精神薄弱児などであり,今日の精神医学の教科書にすら依然としてほぼこの通りの診断名や分類がみられ,困難な治療や不良な予後についての記載はあっても具体的な取扱い方法や療育に関してはほとんどふれられていない子ども達のことである。このように精神科医の福祉行政から教育行政面への連携の拡がりにしたがって,従来のように親や福祉施設からの他に学校や教育委員会からの依頼によって,現存の教育環境では適当でないと判別された,つまり行動上に問題があり集団になじめないなどの障害児が公私を問わず精神科診療機関の外来にますます増加する傾向がみられる。そしてなかには問題行動のコントロールの目的で投与された精神薬物によって,かえって過鎮静,無気力あるいは興奮を呈した事例も少なくはなく,精神的障害児の薬物療法の在り方が見直されたり,また教育の機会を奪われた精神科病棟長期入院児もいる現状に精神科医内部からも自らの受動的態度を反省する風潮が出現している。
さて,関係者の精神科dependenceとは別に,今,養護学級や養護学校の教育現場には重度または不適応行動をもつ精神薄弱児のみならず,自閉症児や精神病的徴候をもつ子どもまでも積極的に養護,訓練そして教育の対象へ組み入れようとしている教師達の姿勢があり,またそのための努力が重ねられていることを強調しておかねばならない。とはいうものの障害の実態が外面からも指摘し得て,しかも療育の課程が一応成立している盲,聾児や肢体不自由児とは異なり,精神的障害児を前にして「この子の頭の構造や心の働きはどうなっているのだろうか」という疑問に教師達は常にぶつかり,ここでもやはり精神科医に向けて彼らの教育目標や技法にかなった解答を求めようとしていることは否定できない。しかし残念ながらそれに対する精神医学の蓄積はきわめて乏しいのである。こうしたことに関連して再び私どもの経験を述べることにする。ある養護学校での修学旅行に多動で目ばなしのできない一重度精神薄弱児を東京に連れて行くことの是非について相談をうけたことがあった。教師の間ではどんなに苦労しても生涯で唯一の機会を与えるべきとするものと引率はとても無理とするものに分れたという。そこで私はこの子には脳幹における調節能の弱さがあり,多動は外界からの刺激に無選択に対応するためと解釈せられる。だから今回の旅行は過剰な刺激にさらすことになりかねず,この子にとって苛酷な仕打ちかも知れない。それよりもこの期間中静かになった校内で教師がより多くの時間をさいて接するほうが望ましいのではないかと答えた。私のこの提案はすべての多動児について妥当性をもつものではないが,私自身この子を観察していて,また直接感覚誘発電位による検討からも適合すると思われる精神生理学的仮説を応用したものであった。次にテレメータによる脳波の実験では,重度精神薄弱児のあるものには言語による働きかけだけでは学習に必要な脳の覚醒度を高めることは不十分で,子どもの視,聴覚さらには運動感覚とすべての感覚機能を動員させることが不可欠なことを認めたが,知人の教育学者からイタールよりセガン,モンテッソリーに至る精神薄弱児の感覚教育の理念に通ずる所見として評価されたことがある。私はこれらのささやかな試みをあえて引用した理由は次のとおりである。第1に養護教育への精神医学的寄与をめざした具体的な方途の一つを参考までにしめすためである。それにもまして第2には,今後精神薄弱児との全人格的な日常のかかわりの中で障害の本質を一層よく理解するための基本的科学,すなわち障害脳の構造や機能の特徴およびその成熟の様相をふまえながら,子どもの可能な限りの発達を保障するための精神科医療を推進するのでなければ,心身障害児問題においては精神科医としてのidentityは早晩おぼつかなくなるという不安にかられているからである。
Copyright © 1978, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.