人にみる公衆衛生の歴史・12
国崎定洞(1894〜1937?)—社会衛生学より革命運動へ—(2)革命家への道
川上 武
1
,
上林 茂暢
1
1杉並組合病院内科
pp.256-257
発行日 1972年4月15日
Published Date 1972/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204459
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ドイツ留学
1926年9月,国崎はドイツ留学の途についた.ドイツ留学→教授という明治いらいの東大の慣行よりみれば,医学者としての将来を保証されたのも同然であった.このような世間的な評価はともかく,カーエスの社会衛生学,マルクス・エンゲルスの国,レーニンの社会主義革命のソ連を見聞できるのは,彼にとっても大きな喜びだったはずである.
だが,無条件に留学を喜ぶわけにはいかない事情が国崎をとりまいていた.一つには洋行の手続を警視庁でなかなか許可しなかったためともいわれ,また個人的には妻斎藤ともの病が前途に暗い影をおとしていた.伝研時代ラボランチンであった斎藤との結婚は,当時の社会通念からすれば破格のことであろう.家庭の反対もつよかったが,助教授として本郷にうつるや,国崎は同棲にふみきっている.妊娠腎より腎臓病を悪化させ実家の六畳間に臥している妻の存在は彼に出発を躊躇させていたという.
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