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「フーバーヴィルズ」(Hoovervilles)という地名を聞いたことがありますか? この地名は正式のものではなく,アメリカの大恐慌前後に大統領を務めたフーバーにちなんで名づけられた.フーバーヴィルズにあふれる大勢の失業者は,公園や空き地に段ボール箱で組み立てたテントあるいは掘っ立て小屋で寝起きし,貧しい生活をしのいでいた.ことは1932年,今からおおよそ80年前である.これに似たような風景は2年前の年の暮れ,官庁ビルが林立する霞ヶ関界隈の近くにある日比谷公園でも見られ,われわれの記憶に新しい.
フーバーは貧困の家庭に育ちながら,クウェーカー教徒である医者のおじから勤勉・独立の気概を教えられ,スタンフォード大学を卒業するまで漕ぎ着け,鉱山技術者として身を立てた.やがて実業家として世界各地で活躍し,財をなした.第一次世界大戦後,飢餓に苦しむヨーロッパの人々を援助するプログラムを立ち上げ,その後ハーディングやクーリッジ大統領時代に商務長官を務めた.商務長官時代に官民の協力,自由貿易などをモットーにアメリカの繁栄を導いた.1928年,不況の足音が聞こえる中,フーバーはそれまでの実績を買われ,共和党の候補として大統領選に出馬し当選した.フーバーは不況というのは金融システムの破綻であり,不況からの脱出は産業の立て直しであると考えた.そこで官・産・労の協調のもと,企業はなるべく雇用を維持し,労働者はストライキを避け,政府は企業に融資あるいは農産物の買い上げに努めた.弱者救済は政府の政策によるのではなく,民間の慈善活動を中心とすべきとした.さらに大幅な関税引き上げを断行したが,諸外国も対抗処置をとり,その結果不況は世界中に広がった.1932年の大統領選に再度出馬したが,民主党候補でニューヨーク市長のフランクリン・ルーズベルトに破れた.フーバーとルーズベルトの政策の違いを見ると,前者は国家や政府レベルの対策しか講じなかったのに対し,後者はニューディール政策を通じて民間経済に積極的に関わったとされている.
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