日本看護婦物語・その10
日本の近代看護創生期の人びと—(東京)帝国大学看病法講習科・2
高橋 政子
,
土曜会
,
歴史部会
pp.71-77
発行日 1969年2月1日
Published Date 1969/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661914377
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碧川 かた(つづき)
一方,碧川企救男は早稲田を卒業すると,どおしたいきさつがあったものか,北海道に渡って網走監獄の英語教師となった。そしてしばらくして,札幌の北海タイムスに入り,さらに小樽新聞の記者となった。(小樽新聞とは,晩年に至るまでつながりが深く,京都時代にも新聞小説など送稿していたとのことである。)
かたとは,郷里鳥取から同伴上京以来,彼女が苦境にもめげず,雄々しく立ち上ろうとするその個性的な面影が忘れられず,次第に深い愛を秘めながらめんめんと交際が続いていたものであろう。2人は,この小樽時代に結ばれたのである。かたは,東大病院7年間の看護婦生活に終止符を打って,彼のもとに走っている。そのへんのことは近親者にも,つまびらかではないが,私たちが晩年のかたからうけたあの情熱的な性格を思っても,2人の間に激しい愛の交流があったことは想像にかたくない。そして最初の男子,碧川道夫註1)が明治36年2月25日,小樽で生まれている。かたの東大病院看病法講習科への入学が明治28年と推定され,「病院生活7年間」とかた自身が「思い出」に語っているところから推して,その結婚は明治35年と考えて間違いはないであろう。かた33才,企救男25才の時である。
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