東西南北
聖職
橋本 恭明
1
,
牧 羊子
,
白井 克臣
2
,
右近 靖子
3
1川越女子高
2横浜チャペルセンター
3東京教育大
pp.13
発行日 1968年4月1日
Published Date 1968/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661913931
- 有料閲覧
- 文献概要
「人生って何?愛って何?なぜ戦火は絶えないの?」こんな風に生徒が私たち教師に問いただす時私たちはその真剣な眼差に胸を締めつけられながら,否応なく汚れない世界にひきこまれる。粉飾ぬきの教師の生きがいとはそんなもの。教育はその未来形における生徒たちのエートスや思想を形成するのが第一の前提であるとすれば,崇高な使命にちがいない。それを聖なる職と呼べば呼べるだろう。しかし「教師は聖職である」という表現は,教師の膨大な超過勤務手当を支払わないために自民党が戦前の教職観を再び持ちだしてきたもので,その発想,その目的において教育の本質とは無関係のものである。私たちが生徒に語るものは,生活の豊かさであり,人間的な豊かさであり決っして貧しさではない。崇高な使命というものは,現実の不平等や不正の渦巻く社会にも倒れることのない真理を創りあげることであり,それは聖なる立場に威高々と座していることとはまったく逆である。
Copyright © 1968, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.