グラフ 看護の跡をたずねて・8
太宰府(福岡)
石原 明
1
1横浜市立大
pp.84
発行日 1968年2月1日
Published Date 1968/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661913884
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古くからわが国は朝鮮半島と深い関係をもっていた。ところが6世紀になって大陸の勢力が次第に半島を侵略しはじめたので,わが国は救援の手をさしのべたが,結局は663年に白村江(はくすきのえ,現在の錦江)で大敗し,全面的に手をひくことになった。したがって九州の防備を固める必要があったので,筑紫国に太宰府(だざいふ)をおいて守備を強くすることにした。これより941年に廃絶するまで約300年間,太宰府は九州の政治,文化,軍事の中心地として栄え,トウノミカド(遠朝廷)と万葉の歌人にもうたわれるほど盛んになった。
いまは福岡県太宰府町として田園に囲まれているが,訪れてみると多くの遺蹟にうたた感慨を禁じ得ない。太宰府の政庁であった都督府の正殿は都府楼1といわれ,その周囲には多くの建物があって,首都の奈良の都についだと伝えられる。万葉歌人の大伴旅人(おおともたびと)が長官として赴任したのもこの地だし,地位を落された菅原道真が来たのもまたここである。日本の医学史,看護史の上で大きな足跡を残す高僧で,名医を縦ねた鑑真(がんじん)が,幾多の苦難の末,ようやく日本にたどりついて,ひとまず休息したのも都府楼であった。国土防衛のためにはるかな遠国から駐留した防人(さきもり)たちは,第一線の水城(みずき)の守備の休みには,近くの観世音寺に参拝して,太宰府のあたりで休息もしたであろう。
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