世界のナース・5 ドイツ
空襲下のタンカ運び
德永 太郞
pp.25-28
発行日 1950年8月15日
Published Date 1950/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906688
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
1944年の夏私は肋膜炎に患つてベルリン郊外にあつた大學病院の分室に入院した。その年の6月には米英軍はノルマンジーに上陸して破竹の勢でフランスを席巻しパリはあと數日で落ちると云われやがて米英軍がドイツに入るのもあまり遠くないだろうし東の方からはロシャ軍が怒濤の樣に押しよせて來ているのでドイツがもつのも今年一杯ではないかと先が覺束なく思われる時であつた。その頃はベルリンは毎晩のように空襲をうけていた。空襲は前年から激しくなつていて私が入院した頃ベルリンの市内は半分以上も破壞され中心地は全滅に近い状態で大きい大學病院も幾度かの空襲でこわされ郊外の割合に安全なところに分散していた。
私が入院したのはそのうちの一つでベルリンの北の方,電車で1時間ばかりかゝる小さな村にあり空襲の目標となる樣なものはないがベルリン防禦の高射砲陣地が離れた所にあるとかで,そして丁度ベルリン空襲の通路になるとのことで近くには爆彈のため壞された家もあり病院の構内にも二三度小さな爆彈が落ちたことがあると入院の際きかされた。その頃の空襲は夜が主で夕方英國の飛行場を出發して暗くなつてドイツ國内に入つてくる。それで夏の夕暮のながい北のベルリンでは夜の9時か10時から空襲時間がはじまり時には朝の2時か3時頃來ることもありました。
Copyright © 1950, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.