連載 対談・1【新連載】
母子の生命のみとり手として
原田 静江
1
,
小柳 琴
2
1日本看護協会
2日本看護協会助産婦会
pp.36-38
発行日 1967年4月1日
Published Date 1967/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203380
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小柳 小さい時のことから伺いましょうか?
原田 明治17年麻布の我善坊で生まれそこに住んでいました.祖母は若い未亡人で,母は5〜6歳の私を祖母にあずけて,鳩山春子女史の創立された神田共立女学校にミシンを習いに通っていた.今とちがい電車はむろん自動車はないし,お金持ちでないと毎日人力車なんてのれないので歩いて通ってましたよ.南側は紀州家で(今は郵政省になっている)北側は麻布のご用邸などがあって,その間の小さな谷間なんです.我善坊って所は.しかしその狭い所に華族さま,子爵などがたくさんいらした.ご近所に偉い方のお屋敷が多く,小学校の同窓生にそういう方のお子さんがずいぶんいました.明治28年,私がまだ小学生の時,日清戦争に勝って,明治天皇が新橋の停車場にお着きになり,道筋には小学生から大学生までがお出迎えして,たいしたお喜びでしたよ.その時はじめて「砲筒の響き」ができたの.小学校の音楽の先生が,一生懸命教えてくだすったわ.
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