甃のうへ・第65回
理学療法士とわたし
橋爪 佳代
1
1小倉リハビリテーション病院地域リハビリテーション部
pp.1146
発行日 2018年12月15日
Published Date 2018/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1551201397
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小学生の頃から全日本のバレーボール選手を夢見ていた私は,高校1年生で大きな挫折を経験しました.夢が実現することはありませんでしたが,大好きなバレーボールでチームをマネジメントできることに喜びを感じ,高校3年生の夏から社会人女子バレーボールチームのマネージャーとなりました.日本代表の選手を抱え,Vリーグやその他の大会に参加したり,学生・海外チームの合宿を受け入れたり,数多くの経験をさせていただきました.その後,所属企業のOLを経て一人旅で魅了された沖縄(石垣島)へ25歳のときに移住しました.身体障害者療護施設でリハビリテーション助手をするまで理学療法士という仕事を知らなかった私ですが,離島・僻地における医療格差を目の当たりにし,資格を取得したいと強く願うようになりました.
理学療法士となってからの私は自身の理学療法士としての能力はもちろんのこと,八重山の厳しい離島環境(移動は船や飛行機,医療・介護・福祉サービスの不足,介護力不足など)にずいぶんと悩みました.同じ悩みをもつセラピスト仲間や地元の方々に支えられ,週末になると離島へ(体操教室や相談事業に)出かけました.沖縄本島へ職場を変えてからも沖縄県理学療法士協会の活動をしながら離島環境の改善に努めてきました.ちょうどその頃,理学療法士の大先輩から東日本大震災後の特区事業(東日本大震災復興特別区域法に基づく訪問リハビリテーション事業)に誘っていただきました.環境を変えることに半年ほど時間はかかりましたが,今しかできないことだと思い,宮城県気仙沼市の訪問リハビリステーションで勤務することを決意しました.
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