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Ⅰ.初めに
老子における「大道廃(すた)れて仁義あり」ではないが,倫理や道徳の必要性が声高に語られる時代というのは,とりもなおさず,倫理や道徳が動揺し危機に陥っている時代である,と言えるのかもしれない.現在の日本の社会において,政治倫理が強調されているのは,正しくそういう状況を反映している.しかしまだしもこれは,道徳の乱れに対する,道徳意識の側からの批判なのであって,それ自体道徳の現れ,と考えることができる.しかし道徳の問題は表面上現れたその動揺と混乱に尽きるのではない.むしろ道徳が動揺するのは新しいモラルが台頭しつつある証拠とも考えられる.より本質的な問題は,例えば戦前の日本,軍政下にあった韓国,ギリシャでそうであったように(おそらく現在のチリや南アフリカでも,そしてなかんずく天安門事件後の中国では,きっとそうであろうが),ことさらに崇高な(しかし結局は人権を抑圧するような)精神性や道徳性が声高に主張されるときにこそ存在する.1974年7月まで軍政下に置かれていたギリシャでは,上半身裸で往来を歩けば,それだけで風俗紊(びん)乱の廉(かど)で警察に逮捕された,と言われている.実は倫理や道徳を強調するのは,民意を体現しない独裁政権における,民衆の不満を抑圧する常套手段なのである.(厳しい校則を課するのは,生徒の自主性を尊重しない学校における,生徒を管理するための常套手段なのである.)上から道徳が押し付けられるとき,そこにはある種のいかがわしさが潜んでいる.私たち民衆としては,このような<イデオロギーとしての道徳>が垂訓されるとき,むしろそのいかがわしさを嗅(か)ぎ取り,そのイデオロギー性を露呈させることが必要なのではないだろうか.ちょうど武谷三男氏がどこかで,民衆にとって重要な徳目は,「嘘をつくな」ではなく「嘘を見破れ」なのであると語っているように(註1).
現代において,医療倫理の重要性がますま意識されるようになったということは,政治倫理の場合と同じように,医療倫理そのものが大きく動揺し混乱している,ということがまずその背景にある.この問題は,特に先端医療の領域において,<生命の操作>に対する危惧となって現れている(第Ⅱ節).しかしこれは,まだしも倫理意識の覚醒の契機とみなすことができる.それ以上に深刻な問題は,このような医療倫理の動揺が必ずしも倫理意識の深化・反省につながらず,単に従来からの徳目―例えば<生命の尊厳>―のドグマ化に終わる場台である.もとより医療の現場で,反省や懐疑だけでなく,つねに何らかの決断が必要である.そのために,確固とした信念,つまり一種のドグマがなくてはならない.しかし公式を丸覚えしているだけでは応用問題が解けないように,単にドクマと化した徳目では,もはや脳死や男女産み分けといった先端医療に対応できない―先端医療の問題が,従来の倫理原則の応用問題であるか,あるいはまったく新しい原理を要する問題であるが,という議論には,ここでは立ち入らない.どちらにしてもドグマ化した徳目では対応できないことには変わりはない―のみならずこのようなドグマに,それと無関係な,あるいはしばしばそれと正反対の,中身が盛りこまれ,ドグマが単にその正当化の「だし」に使われることがある.つまりそれが,特定の利害意識を本音として抱きながら,建前ではあくまで医療倫理を標榜する,<イデオロギーとしての医療倫理>である.日常医療ではしばしば,医療倫理の美名を騙(かた)って,営利の論理が自己貫徹しているのである(第Ⅲ節).医療が営利の手段と化すならば,そこで当然ながら患者の人権に対する配慮などは希薄とならざるをえない.日本の医療の現場では,未だに患者の熟知了承(informed consent)や自己決定権(self-determination)などは絵に画いた餅にすぎない.欧米でこの二十年余りの間にコンセンサスとなったこのような考えかたを瞥見すれば,日本において何が欠けているのか,が明らかになるであろう.その場台,医療倫理はそれぞれの国の文化風土で培われなければならない,ということも一つの真理である.でき合いの成果を直輸入して済むものではない.しかしそれが,informed concentというような基本的な原則の否定につながるのであるならば,このような風土的「変容」には問題がある,と言わざるをえない(第Ⅳ,Ⅵ節),むしろほんとうの意味での風土的変容は,欧米の医療倫理に潜む特有の人間観―<意識中心主義>―を明らかにし,それに対して生命中心の人間観を立て,その両者の緊張関係の中から,風土に根ざした医療倫理が生まれてくるのではないだろうか(第Ⅵ節).
動揺する医療倫理という事態を前にして,哲学には,確固とした基盤を提示し,混乱する医療現場に行動の処方箋を下すことが期待されているのかもしれない.しかしそれは,重要ではあるが困難な課題であり,正直言って私は,何か確固とした宗教的信念でもなければ,すぐには答えは出せないのではないだろうか,といぶかっているのである.と言うのも,動揺する倫理は新たな倫理によってしか,混乱する価値観は新たな価値観によってしか,安定されないのではないだろうか,そして,哲学は,多くの場合,この交替を後から理論的に正当化してきただけではないだろうか,と思うからである.他方で,不幸なことに,少なくともこと私に関しては,このような確固とした宗教的信念を欠いており,またそれに代わる確固とした倫理観,価値観も必ずしももち合わせていない.何かがっしりした倫理学の体系が仮にあって,電話帖の分厚いページをぺらぺらめくるように,それをめくれば解答が得られる,とすればどんなに楽であろうか.しかしこのようなことは,単なる夢想でしかない.しかもなお,現実の医療の問題は,狐疑逡巡に終始することを許してはくれない,ここでは,決断しないことも必然的に一つの決断に化する.進むも地獄,退くも地獄,進退窮まって,無様(ぶざま)なまでに途方に暮れるばかりである.
しかし今必要なことは,いたずらに「失楽園」を追い求めることではない.既成のドグマに依拠できない,というのは近代の自律の理念のしからしむるところでもあるはずだ.むしろ,動揺する医療倫理を真向から見据(す)え,その底にある操作主義的生命観を批判し,建前に堕(だ)している医療倫理のイデオロギー性を剔抉(てっけつ)することが必要であろう.それが医療倫理に対する,哲学の差し当たっての課題でなければならないだろう.(なお医療倫理(medical ethics)という概念は,医の倫理であり,それは医者の倫理である,と受け取られやすいが,医療が医師中心からさまざまな医療従事者を含むコー・メディカルなチーム医療へと枠を広げ,同時にその中心に,医者と対等な関係にあるものとしての患者を据えることによって,医療倫理の概念の狭さが意識され,現代においてはむしろ生命倫理(bioethics)という概念に置き換えられつつある(註2).しかしここでは,その用語上の差異は特に問題としない.)
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