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身近かにあるもの,世のなかにごくありふれたものには,つい深い関心を払う暇がなく過ごして居るのがわれわれの日常である。濾紙に対する科学者の態度もその一つであろうか。化学の習い始めに誰でも一通りは濾紙の種類や使い方を教わつたはずである。分析化学,実験化学の単行本には長い短かいの差があるにせよ一通り濾紙の常識にふれて居る。
だが,濾紙に限らぬ何ごとも専門書をひもとく程の熱心さはもとより基礎的教科書を読みかえす真面目さを持つて居ない人の方が多い。中学,高等学校に通う子女を持つ人には誰でも覚えがあるはずだが試験勉強に悩んで居る子供の様子を見かね彼等の教科書を手に取つて拾い読みする時,昔こんな適切な云い表わし方で物を習つたかしらと驚くほどの事実がみちみちて居る。然し,それもその時だけのこと,やがて子供が大学に行き,卒業する時ともなれば親もその子供さえも,その日その日のことに追われて基礎の知識がなをざりになる。世間と云うものはこうしたものだろうが何んだか砂上に立つた楼屋のようで自分の足元が時時あぶなつかしく感ぜられる。せめて新聞や雑誌に表れて来る断片的な記事にでも,新鮮な印象と透徹した理性を以て対したい。潜在記憶が蘇つて来る,若々しい血汐も湧き立つて来る,人生の空白をうずめる有意義な時間の重なりをこうしてもとめたいものである。創作の意欲とインスピレーシヨンが著者から読者へ脈々として流れ両者を一体に包むものでなければ,それは読書と呼ぶ名にふさわしくない。科学の世界,文学の世界,同じことである。昔の人は此の境地を「眼光紙背に徹す」と云つた。「読書百偏,意おのずから通ず」こんな言葉もあつた。現代人は忙しい,たゞの一偏だけで良い,要は魂の問題である
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