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数年前のある晩秋の午後であつた。堂々たる体躯の一老婦人が,お手伝いさんとおぼしき中年の婦人を付添にして,小生の外来を訪れた。小生は「自費」の患者には一応紹介者の有無を尋ねる事にしている。老婦人答えて曰く「勿論。ございます。実はニチレン様が是非先生に診て頂けとおつしやいますので,参上致しました」そして横に控えた中年の婦人の方を応揚な態度で見遣りながら「そうでしたね」と念を押す様に言う。「ハイ,その通りでございます」と中年の婦人は答えて深深と頭を下げた。ニチレンと言う名には当時心当りがなかつたので「どちらのニチレンさんですか?」と訊ねると「うちにお祀りしてあるニチレン様です」との返事。これで日蓮上人の御托宣と解つた。小生はカルテの上部に「紹介者日蓮上人」と大きく書き込んだ事であつた。過去にいろいろと著名な人士から患者を紹介して頂いたが,日蓮上人ほどの「大モノ」から紹介して頂いたのは何と言つてもこれがはじめてだつたから—。そこで小生,できるだけ叮重な語調で,「わかりました。ところで,どうなさいました? どこかお悪いところが?……」「日蓮様がおつしやるには先生は稀にみる名医との事,私の病など一目でお解りになる筈でしよう」小生仕方なく,くまなくこの老婦人の顔を眺めると鼻の下に一条の鼻汁が光つている。「お鼻ですな」「そう,流石に名医でいらつしやる」そこで小生威厳をつくろつておもむろに鼻鏡を取上げた。「貴女の御病気は,急性副鼻腔炎と言いまして,俗に蓄膿症と言われているものです」診終つて小生は,ゆつくりした句調で言つた。「チクノウショウですか。解りました。日蓮様もそう言われました。で,治るまでどの位の日数がかかりますか?」「そうですね……人によつて異なりますが,急性ですから,毎日通つて来て頂いて,2週間すれば目鼻がつくと思いますが」「2週間ね,やはり先生は名医でいらつしやる。日蓮様もそうおつしやつて居られました」これではまつたく試されている様なものである。小生些かムラムラしてきたが,相手が相手だけにグッとこらえて治療をすませた。それにしても偶然とはいえ小生よくも日蓮上人と呼吸が合つたものである。帰りしなに件の婦人曰く「私の処には,下着類が沢山ございますから,明日伺う時に持参致します。お気に召したのを御遠慮なくお取り下さい。これも日蓮様の御言いつけでございます」付添の婦人も同調して,「病院には女の方が多いと思いますので,女物を主にお持ち致します」等と看護婦に言つている。恐らくこの人,下着類のメーカーか「小売り」と想像していると,翌日持参した品物を見てビックリしてしまつた。いずれも一応は洗濯してあるらしいが,すべてが少々黄ばんだ代物ばかり。シャッにステテコ,無地の長襦袢,それにネルの腰巻まで揃つている。それが何組も大きな風呂敷に入つている様子。老婦人はお手伝さんを促して最初にとり出した腰巻をやおら目の高さまで引上げて,「これから冷え込みますから,看護婦さんにはこれなど一番よろしいでしよう。どうぞお取り下さい」流石物馴れた看護婦もこれには辟易したらしくプイと横を向いてしまつた。しかも彼女の横顔は恥じらいを伴つた憤りの為か,みるみるうちに赤味を帯びてきた。老婦人の目が些か険しくなつた。小生あわてて,「それは,私が是非頂戴致しましよう。年経つた母が居りますから,使わせます。日蓮上人から頂いたと聞けば,母もさぞ感激するでしよう」小生も随分世馴れたものだなと自分で感心しながらも母がこれを聞いたらどういう反応を示すだろうか,とふと考えた。母は80歳を越えているが今だに日蓮様はじめ,「信心」の対象になる方々には殆んど関心を持つていないらしいから。とに角小生はこの部厚いネルの腰巻をうやうやしく頂戴した。その日以来,うちの飼猫は日蓮上人から頂いたお腰にくるまつて風邪ひとつひかず元気に過している。誠にアリガタイ事であります。それにしてもこの様な信者の面倒まで見なければならない日蓮上人はさぞかしシンが疲れることであろうと改めて御同情申上げた次第である。合掌。
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