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1900年(明治33年),「汽笛一声」で始まる鉄道唱歌は,発表後たちまち日本全国に広まった。大和田建樹の作詞であるこの歌が世に出たのは日清戦争の終結から5年後のことである。東海道の全線が結ばれたのが明治22年,上野・青森間が開通したのは明治24年のことである。「陸蒸気」は明治の開花期には交通機関の花形であり庶民の人気の的であった。はじめは,東京音楽学校教授の上眞行(うえさねみち)と大阪師範の若い音楽教師多梅稚(おおのうめわか)それぞれの作曲による2つの曲が歌われた。「上」流趣味より「多」勢の大衆に親しみやすかったト長調4分の2拍子,たった16小節の単純なメロディが10人編成のチンドン屋により全国をまわって,口から口へと熱狂的に歌われたという。その理由はもちろんその単純なメロディにあるが,東海道線に沿って各地の名所名産をめぐる観光列車の役割を果たしたことにもあるだろう。しかし今日,朝の通勤列車が品川駅に停車するたびにこのいささか間延びした曲を聴くと,100年前の古き良き時代へのノスタルジアよりも何かもどかしささえ感じる。それは僅か14秒だけなのであるが,スマホを見ながら先を急ぐ通勤客には余計なお世話である1)。精神医学ではこの時代はちょうどクレペリン(1899)やブロイラー(1917)が精神症候学に基づいて主要疾患を記述した時代である。
1926年(大正15年)卒の松沢病院院長H先生は,宴会ともなると芸妓の三味線伴奏で延々と鉄道唱歌を披露した。「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」と歌いだすと,SLの擬音を口三味線で入れ伴奏する人もいて,速くなったり遅くなったり停車したりして東海道を汽車で旅するように歌い上げた。それはその時代のお座敷芸だった。聴き手の我々は早く終わってほしいと思うばかりであるのに,5分間ずっと歌い続け,やっと14節の旧東海道御殿場に着き「はるかに見えし富士の嶺は はや我がそばに来たりたり 雪の冠雲の帯 いつも気高き姿にて」で下車して頂いた。
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