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緒言
E. Kraepelinがその精神医学教科書初版(1883)以来,最後の第9版(1926,準備中)にいたる43年間の文字どおり畢生の努力は「精神病罹患様式の疾病単位を樹立して,諸症状の相互を一つの体系に仕上げる」ことにあつたといえる。改版ごとに分類様式が変遷し,そのふだんの苦心のあとはK. Kolleの最近の詳細な報告によつて一段と明瞭にされたところである。当面の問題の中核をなす躁うつ病圏についても,それがほぼ現在みるごとき躁うつ病としてまとめられたのは第6版(1899)であつて,初版以来16年がかりである。その規定するところは,「躁うつ病は一方においていわゆる周期性ならびに循環性狂気の全領域を包含するとともに,他方において単一性躁病,『メランコリー』と表記されている病像の大部分,およびアメンチア例の少なからざる数をも包含する。それにわれわれとしてはある種の軽微および最軽微の,一部は周期的,一部は持続的な気分の病的色彩のものを加えるのであるが,それは一方では比較的おもい障害の前段階とみられるものであり,他方では截然たる限界なしに個人的素質の領域に移行している」というのであつた。このような複雑多岐な病像を含みつつ,それが疾病単位として想定されたゆえんは,「むろん,将来亜型の1系列,あるいは個々の小群がこれから分離される可能性はある」ことが保留されてはいるが,1)これら病像相互の間には,はつきりと限界のひけない移行があるばかりでなく,同一症例の中で出没していること。2)同一患者で躁病期とうつ病期をもつばかりでなく,深い錯乱や困惑の病像,異常な妄想形成,それにきわめて軽微の気分動揺などが交代移行していること。3)結局一方に持続的な気分の情態が背景となつて,それとはつきりわかる躁うつ病の病期が展開していること。4)予後としてはおもい荒廃に導くことがない。5)同一家族中にこれらがそれぞれに相並んで出現しているのをみることが多いという遺伝学的経験などであつた。しかしこの諸理由は,こんにちでも同様であるが,病像相互の位置づけや内的連関,とくに病態生理学的実証の不足のため,いわば傍証的条件にのみ支えられているにすぎない欠陥を残している。そしてあたかもこの間隙に突きさすかのごとくに,Hoche,BumkeによつてKraepelin体系に対する原則的かつ経験的抗議が鋭く提出される。とくに症状の非特異性,疾病を構成する諸要素の非特異性,個人性の役割などを指摘し,「Kraepelinは体質概念がほとんど閑却されていた時代の人であつた」とあからさまな断定すらくだして,精神病質的体質(psychopathische Konstitution)と,それを基盤として発生する急性精神障害である機能的精神疾患の概念を提唱するところになり,とくにこれが躁うつ病圏に当てられたのであつた。この思想の一部はKretschmer学派に少し過度に継承されて,Psychoseはある特定の体質に照応する正常気質のいわば「尖鋭化(Zuspitzung)」とみなされて,「体質的諸関係の網の目」に当たるという遺伝生物学的解釈に偏重する傾向を生むにいたつている。これに対してK. Schneiderが「それはPsychoseの存在すること(Dasein)と,その様態(Sosein)とを混同するもの」として鋭く批判しているところでもある。つまり,いうところの体質は病前的体質(Prämorbid Konstitutionelle)のものであつて,したがつてそれに新たに加わつてPhaseを出現させるMorbus-Faktorを考慮することが忘れられていることの指摘である。しかしこのことはすでにBirnbaum(1928)によつて指摘されていた。BimbaumはPsychoseを現実所与として素直に受け取るとき,「その様式と転帰のうえからみてある種の規則正しさでもつて再現し,それゆえに内的連関性と一体性とを示唆する臨床的諸現象のまとまつた系列が感じとられ,しかもある種の(確実に証明される可能性には多少があるにしても)特殊動因(Agentien)に規則正しく帰属せられることによつて一体的に惹起されていることが示される」として,Hoche,Bumkeの抗議を十分に斟酌しつつ,「これら一切の異議も,……真に自然法則的に確認せられた複合的臨床単位としてのこの疾病形態を放棄するにはたりない」とのべている。むろんここでのAgentienはKraepelinが進行麻痺にみたごときそれでないことは明瞭である。したがつてBirnbaumの疾病構成論において臨床形態的視点からの構成決定子の中での主要概念たるPathogenetikの概念は,内因性疾患に関するかぎりHocheなどの見解には稀薄であつて,そのKonstitutionの概念は,Birnbaumでの補助概念であるPradispositionの概念に相当するごとくである。つまりすでにBimbaumでは,こんにちKretschmer学派にみられるごとき,性格を体質のいわば直線的延長の相関に考えることをしないで,「一方において体質は生物学的要因の中核部を含み,他方において性格は心理学的要因の中核部を含むかぎりにおいて」この両者を一体的にあわせもつ「個人(Person)」を舞台としてPsychoseが活動するというか,あるいは個人を襲うといつてよい構造関係におかれていることになる。いいかえれば体質はPradisposition,性格はPräformationの位置に該当し,あらかじめこれらを含むPersonはextrapersonalのPsychoseとの関係において臨床素材的構成関係にみられるのである。ここでextrapersonalという形容はK. SchneiderのSinnkontinuitatの欠如と同巧異曲の表現であろう。いずれにしてもこんにちなお躁うつ病においてもそのほかの内因性精神病におけると同様に,Birnbaumの意味でのPathogenetikをまつたく欠いていて,ここに各種の議論簇出の根があるわけである。そしてこれがまた,Kretschmerの多元的診断がBimbaumの構造分析と類似の観を呈しつつも,模細工的崩壊の危険をはらんでいるゆえんでもあり,K. SchneiderがPsychoseたることは認めつつも,鑑別診断といわないで類型帰属(typolog Zuordnung)としているしだいでもある。BirnbaumのPathogenetikは疾病の惹起,K. SchneiderのMorbus-Faktor,したがつて同時にPsychoseの基本性格の特殊決定に関係するもの,Pathoplastikは疾病の病像賦形,したがつてPsychoseの外面的,具体的な形態賦与に関係するものである。
以上の沿革的背景を前おきして,本論ではまず現在みられる疾病学的諸問題の所在をあげ,ついでとくに躁うつ性うつ病像の構造分析をPsychoseとPersonとの関連からこころみ,最後にその知見を用いて前記諸問題検討の一視点を提供したいと思うものである。そのさいPersonに関しては現在流行の性格類型の適用に終ることをしないで,いつそう基礎的な性情学的分析(Wesenskund-liche Analytik)を用いることになるであろう。
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