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はじめに
神経心理学の研究領域が,近年加速度的とも言うべき拡張,発展を示しつつあることは,筆者が改めてここで指摘するまでもないであろう.この間の事情は神経心理学成立の決定的契機となった専門誌“Neuropsychologia”の創刊(1963)後の20年間の研究を主導して来た――そして1983年6月惜しまれつつ他界した――H. Hecaen(1912-1983)の晩年の著書(1978)に見てとれるのであって,「人間神経心理学human neuropsychologyとは,人間の行動の基盤にある神経メカニズムの研究である」(――は筆者)と極めて広義に規定されている.さらに神経心理学の領域内では,人間神経心理学と動物神経心理学,成人神経心理学と発達神経心理学といった様々な分野が区別され,一方ではいわゆる神経科学neurosciencesないし神経生物学との,また他方では精神病理学や実験心理学,発達心理学(心理=)言語学などの人間科学ないし行動科学一般との学際的関連が明確に力説されるに到っている.研究方法の上でも,次々に導入される新しい手法<特に既にルーチン化した両側感覚野同時刺激法やCTの他,計量的分類学の如き種々の統計学的方法,側方眼球運動(LEM)記録,PET,NMR,局所脳循環血量(γCBF)測定など>を駆使して,極めて多岐にわたるテーマをカバーしなければならなくなっており,例えば脳損傷患者のみならず,いわゆる内因性ないし機能性精神病患者や健常者をも対象とする大脳半球側性化の研究の進展は,この事態を反映するものであろう.しかし他方では,この趨勢が稀ならず,「左脳人間云云」といったpopular scienceへの様々な逸脱や,脳梁切断による「心」の分割論(Sperry,1966~1979)あるいは精神分析学的な意味での「無意識」の右半球への局在学説(Galin,1977)にその一例を見る如き知識論的混乱を招くに到っているのも事実であって,これは現代神経心理学がもたらしたnegative impactの現われと言えるかもしれない.
このようにみると,1861年に人間の「言語構音能力」と第3前頭回との関連についての仮説を提出したP. Broca(1824-1880)と共にはじまったとされる近代神経心理学が,彼の没後100年を経て「行動」と「神経メカニズム」の関連という広大な問題領域を取扱うに到ったのは大きな変化と映るであろうが,しかし見方によってはわれわれは,毀誉褒貶の少くなかった世前半の脳器官学organologie(Gell,1810/19)の時代から,名実ともにそれ程離れた所にいる訳ではないと言えないこともない.何故なら,人間行動の全体を脳機能との関連で追求するという基本的な考え方は脳器官時代に既に存在していて,Brocaの仮説――ちなみにそれは後述する如く今日なお未解決の問題である――はその中から生まれたテーマの一つに過ぎなかったのであり,“neuropsycology”という用語すら当時すでに登場していたからである.たとえば英語圏では,フランスのBaillarger,ドイツのGriesingerの同時代人であり,J.H. Jacksonの師でもあった精神医学者T. Laycock(1812~1876)が,18世紀ドイツの医師J.A. Unzerの生理学書“Erste Grunde einer Physiologie7)(1771)の英訳(1851)を試み,その序文に以下の一節を書き記していたのである:「……彼がそこに挿入した神経心理学的試論neuropsychological essaysは本書においてしばしば言及されている」(p. ii),「……シルヴィウスは……デカルトに従ったのに対し,ウイリスはパラケルススの学説の……影響をうけた.しかし今一人の神経心理学者neuropsychologistがいたのである.」ここに見られるLaycockの「神経心理学」とは明らかに,人間の心理(行動)を神経系との関連で追求する科学であり,それは17世紀のDescartesやSylvius,Willies,16世紀のParacelsus,さらに場合によっては古代から中世の脳室学説にも遡る生物学的心理学の伝統の上に位置づけることが出来よう.
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