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人間学的心理療法というものをいかなるものと了解したらよいのか。それは森田療法とか精神分析療法とか最初から一義的に心理療法を志向するものと同列に論じてよいのか,これらの疑問がまず生じる。そもそもそのようなものは存在しないという人もいるであろう。それも一つの見解である。しかし常識的には,「現存在分析による心理療法」ということであろう。しかし現存在分析というのは元来は精神医学の方法論であり,基礎論でもあって,それ自身は心理療法ではない。しかしそれでは何故にビンスワンガーが,おのれの学を呼んで「ラポールの心理学」としたのか。それは人間性に対する存在論的構想と現象学的接近によって,轍鮒の急にある患者の存在様式の変様を知り,またそれを患者にも深く洞察させて,虚生の憂いから解き,人格の成熟を期待したからである。その意味では不肖に似たりとはいえ心理療法の基礎を本質的に形成しているといえよう。事実,ボスやコンドロウの著作はその臨床例を示している。しかしこのような人間学的定位はおよそ偏狭でない,すぐれた心理療法家ならばquestio factiとして既に行ってきているものである。現存在分析はそれをquestio jurisとして行うのである。ただ技法的には精神分析に極めて重複するが,解釈学が全く異なるし,治癒像も異なっているといえよう。もっとも現実には,心理療法というものにとっては,理論がまず存在して,それから患者が存するのではない(多くの心理療法家は不思議にもその誤りを犯している)。反対に,患者があって理論が初めておくれて徐々に出てくるというべきであろう。もともと治療法に名称をつけるよりは,それぞれ個別に多様的な患者の世界そのものの理解が問題なのである。長い臨床経験を持ち,労苦多い道程を経た心理療法家ならそのことをよく知っている,まことにどの理論にも妥当せず,どの療法にも抵抗し,そして意表外のアネクドータルな行動で治療者に長く記憶される患者がいるものである。その意味では治療理論上の排他的な論争―学習理論などに固執する人々によくみられる―は単に蝸牛角上の争いであることが多い。また実際に臨床場面での一つの療法の絶対化は,それ自身,患者にとって不幸な果実を生むことになる場合もある。ファウストの内で述べられているように,人はおのれに似たGeistしか呼び出せないことは知っておく必要がある。しかしすぐれた心理療法といわれるものは,もともとは文化の差を超えた,相互に親和性の高いものであって,使用する術語は異なっても,結局は人間の無限の生機,本来の面目に至ることを目指す点では共通である。このような表現は決して哲学的,形而上学的な表現ではなく,最近の人間行動学の進歩が示すように,系統発生的な歴史によってつみかさねられた生得的なものを真に生かし,かつ良く社会化し,制御することである。したがって問題であるのは,生物学的であって,かつ精神的な,普遍性における人間性である。それはその最も深いところにおいては文化の差にほとんど影響されないものである。しかし重要なことは,それだけに逆にそこでわずかでも現れてくる文化による相違は,それだけ一そう意味深くなるということである。
しかしそれだからといって問題はそれほど簡単ではない。他方では治療者の人格というものが文化の差などを容易に乗りこえる面も持ちうるからである。しかしそれは後で触れるので,ここでは考慮の他におくとしても,今日のように文化交流によって文化の多様化と輻輳化が進んでいる時に,「日本的特性」という,いわば一つの一元化的発想そのものが問題であろうし,その特性といったところで甚だ曖昧でかつ抽象的な性質である。それに的確に答えることなど誰でも躊躇を感じないわけにはいかない。そもそもそのような「特性」があるのだろうか,という否定的な考え方もあるであろう。この場合に文化人類学者や精神医学者などによって,例えば「タテ社会」とか「甘え」とかいうキイワードが唱えられて,それが結論であるかのように,それで簡単に割り切ることがよく行われるが,それはこれらのキイワードを言い出した人の意にも反するであろう。何故ならば彼らはそれでいわゆる日本的特性がすべて把えられたなどとは少しも思っていないだろうからである。また社会心理学的に大規模な見本数で「日本的特性」なるものの意識調査をしても分明になるものでもない。もしいわゆる「日本的特性」なるものを把えようとするならば,むしろ従来のような表面的な一般性という形で特性を見出そうとする通常の発想とは別なもの,すなわち「稀有であって,しかもそれによって象徴されるものがその特性的なものとのかかわりを示す症例」を通して考えることはできないだろうか。すなわち,人間性とその文化は系統発生的にしっかりと裏付けられた一般的な蒼古的性質の下にあるから,それだけに文化上のいわゆる特性的なものは或る例外的な特殊な症例の中に一瞬それが現れる,という点こそ考慮さるべきではないだろうか。(なお「日本的特性」ということを先に指摘したように治療者の人格の「日本的特性」と解して考察することも極めて興味深い接近の仕方である。しかしこれも甚だ複雑な内容であり,簡単に扱うことはできない。心理療法家というのはどこの国でも一種のアウトサイダーであることが多く,それは一向にかまわないとしても,どの文化圏でも大家になるほどしばしば言行不一致であり,ときにはその社会的名声が家族や弟子の不幸の上に成り立っていることが多いから,まさに手のつけられない課題である。しかし心理治療家というものは清苦の山林の士にはなれないものであるとつくづく思う)。
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