公衆衛生人国記
徳島県—歴史とフィールドワークを訪ねて
三好 保
1
Tamotsu MIYOSHI
1
1徳島大学医学部公衆衛生学
pp.286-288
発行日 1991年4月15日
Published Date 1991/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401900331
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
徳島の近代医学のあけぼのの時期に活躍した1人に,医史学上にもその名をとどめている関寛斉があげられる.関は千葉県東金市東中823の出生で,18歳で当時上総佐倉で蘭学塾を開いていた佐藤泰然の佐倉順天堂で学び医者になっている.万延元年(1860)10月から文久2年(1862)11月まで,長崎に留学.オランダ海軍軍医ポンペ,松本良順などの教授指導で蘭医となった後,文久2年に阿波藩医として徳島に住んだ.明治4年政府軍に移り,徳島の地を離れ官職に就いていたが,明治6年(1872)徳島に帰って開業生活に入っている.明治35年(1902)に北海道の原野を開拓するため夫妻で移住するまで,市民の診療に当たっている.長崎留学中ポンペに接して西洋医学の中にみる博愛精神を知り,富者には診療費を高く,貧者には低く,日清戦役の軍人家族とか傷病兵帰郷患者などは無料にした,と語り継がれている.明治3年(1870)徳島医学校とその付属治療所が11月1日開院し,その医学校教授として開校最高責任者となっていたが,関が徳島の地を離れて間もなく,明治5年医学校およびその付属治療所の廃止により,一時甚だ衰微した.
Copyright © 1991, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.